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12ステップ 第10講

2002年サマーカンファレンス主題講義T

御言葉 ヨハネ8:1―11



罪に定めないイエス様


「彼女は言った。『 だれもいません。』 そこでイエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。 今からは決して罪を犯してはなりません。』」(11)


12step10


 今日の本文は、『姦淫の女』の話としてよく知られている箇所です。姦淫とは 夫婦以外の相手との関係です。聖書によれば姦淫は罪です。 では、罪とは 何でしょうか。世の多くの人々は「あなたにも罪がある。」などと聞けば、失礼なことだと思うでしょう。 ですが、それは、罪という言葉の本来の意味を知らないからかもしれません。 この時間、私たちは2000年の時を 超えてイエス様とともに、朝の宮の中にいます。そこにいる『誰か』として…。


T.姦淫の女(1-6)


 場面は、過ぎ越しの祭りというユダヤの伝統的な祭りの後。一時の祭りの後、ふと 我に返ると、その先にあったのは、ただ暗闇だけでした。その夜、イエス様はオリーブ山に行かれ、一人で祈られました。 暗闇の中で…。

 早朝になりました。イエス様はもう一度宮にはい られ、みもとに寄ってきた民衆に教えていました。 しかし、そのとき、朝の穏やかな時間を引き裂くような出来事が起こりました。 一人の女性が、律法学者とパリサイ人たちによって宮の真ん中に引きずられてきたのです。 あたりは騒然となりました。 彼らは叫んでいました。

 『こういう女は、石で打ち殺せとモーセは律法の中で命じている。』

 この女性は、姦淫の罪を犯した者として捕らえられたようです。 旧約聖書には、『姦淫を犯したなら、男女ともに死ななければならない』と記されています。どう思いますか? 厳しい言葉に思われるでしょうか?

 ところで姦淫とは何でしょうか? この国では約5分に一組が離婚するそうです。いろいろな個々の事情はあるのでしょうが、 離婚というのは、結局のところ、結婚を欲望の手段とする結婚観の帰結に他なりません。 このように、男女の関係を単なる欲望を満たすものとすることこそ姦淫なのです。 破壊された家庭の子供たちが受ける精神的なショックは言葉では言い表せません。 他人を自分の欲望を満たす手段のようにして生きていれば、やがて、その人の心は渇き切って本来の人間の心を失ってしまいます。

 だから神様は私たちに警告されました。『姦淫を犯したなら、男女ともに死ななければならない』と…。 この言葉は、本来、神様の憐れみに満ち溢れています。 神様は姦淫の罪を犯す人々憐れまれ、私たちに警告してくださったのです。 『姦淫を犯したら心が死んでしまうんだ!』と…。 神様は、人がご自身のもとに戻られることを待っています。 ですが、律法学者達には、こうした神様の思いは届いていなかったようです。

 「最近、民衆を扇動しているナザレのイエスという男、しってるか。」
 「ああ。癪に障る奴だ。人気ばかり取りやがって。」
 「よし、それなら、一丁誘導尋問でも仕掛けて追い込んでやるか…。」

 彼らの目的は、イエス様を陥れることでした。この女を赦すべきだとイエス様が言った ら、「貴様は律法をおろそかにするのか!」と言えばいいですし、仮に「石打ちにしなさい」などと言ったら、 「お前が普段、赦せと言ってたのは嘘だったってことか?」と言えばいいのです。 彼らは律法を守るためというよりも、ただ単にイエス様を陥れるために律法を利用しただけでした。 なぜなら、律法には『男女ともに死ななければならない』とあるのに、 姦淫の相手の男性は、そこにいません。彼らは律法に字義どおりに従ったわけでもないのです。 彼らは律法を、そして姦淫を犯した女を、自分たちに都合のよい道具のように扱いました。

《ただ、ここで少し触れておくと、女性への不平等な扱いには、当時の時代背景も関係あるようです。 現代では、結婚は『愛し合う男女がするも の』と考えられています。しかし、当時のユダヤではかなり違っていました。当時、女性は父親が決めた 男性と、12歳から12歳半の間に結婚しなければならず、しかも、一夫多妻でした。父親は金を受け取 って娘を手放します。当時のユダヤ社会で、女性は、単なる子どもを生ませるための道具、労働力に過 ぎませんでした。》

 石打ちの刑は断崖から突き落とし、骨を折って動けなくなったところを、手に石をもって殴り殺すという 残忍極まりないものです。まだ、人生これからの若い女性です。このとき、彼女の目に は何が映っていたのでしょうか。ただ、叫びつづける律法学者、そして、好奇の眼差しで見つめる群衆たち…。


U.罪のないものが (7-9)


 イエス様は取り合わないかのように、地面に何かを書いていました。パリサイ人や律法学者が問い続 ける、まさにその真ん中で、イエス様は、身をかがめて、指で地面に書いていました。やがて、身を起 こし、一言、言われました。

 「あなたがたのうちで罪のないものが、最初に彼女に石を投げなさい。」

 人々は静まり返りました。

 罪のないもの?私に罪がないと言えるのだろうか?そこにいた全ての人々は気が付いたのです。自分の心の中の暗闇に…。 その暗闇は、あの祭りの後の暗闇のようでした。 律法学者たち、姦淫の女、全ての群衆…。皆、暗闇の中、何かを求めてさ迷い、それぞれの道へと向かって行きました。

 罪という言葉はギリシア語でハマルテーア(的外れ)と表されます。 それは本当の目的を見失った状態です。滅び行くものにとどまっている状態です。 永遠の神にとどまるのではなく、滅び行く自分にとどまっている状態です。 心から信頼できるものが見出せないのです。 そうすると、人は他人より自分が優れていると確認することによって安心しようとするものです。 不安だから人と比べ、不安だから人を裁きます。 聖書は、ローマ人への手紙2章1節で、「他人を裁くことによ って、自分自身を罪に定めている。」と言います。 イエス様は祭りの後の暗闇で、一人祈られていました。 今、イエス様は、ひとり身をかがめて、指で地面に書いています。人々の心の暗闇の中で…。 地上に書かれた神の言葉は、神の言葉(ヨハネの福音書1:1−2)として地上に降りてこられたイエス様を象徴しているようです。 やがて、雨風で消えて行く神の言葉は、一人一人の罪や迷い、心の闇、その全てを背負って十字架へと向かっていったイエス様を象徴しているようです。

 しかし、夜は明けます。三日後にイエス様は甦るのです。


V.罪に定めない (10,11)


 静まりかえった朝の宮でした。イエス様は身を起こして、ひとり残っている女に言われました。「婦 人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言いまし た。「だれもいません。」 イエス様は彼女に言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさ い。今からは決して罪を犯してはなりません。」

 「わたしもあなたを罪に定めない」それは、赦しの言葉です。「そのままの姿で、 私のところに来なさい。」と言う赦しの言葉です。 それは私たちを解放する言葉です。 自分にとどまり、自分の姿に苦しむ生き方から解放する言葉です。 この方は、今も、手を差し伸べています。 私たちが頑張ってキリストを真似するのではなく、 私たちひとりひとりの中でキリスト御自身が生きて働いてくださいます。 川の流れのように…。私達の心に降り注ぐ雨のように…。 キリストの愛が、まさに今、聖霊となって降り注いできています。 渇いた地上にいた私たちに…。 今こそ、主の愛に心を解き放つときです。

 もはや私達が生きるのではなく、ただ、私達の中で、甦ったキリストが生きるのです。

 本当の赦しを知った人は、すでに罪と決別しています。 主は人を罪から解放するために来られました。ヨハネ福音書3章17節で主は言われます。私は 「世を裁くためではなく、世を救うために来た」と。
 主は女に言われました。『行きなさい。今からは決して罪を犯して はなりません。』 主が彼女に『行きなさい。』と言われたとき、そこには、行くべき目的の地がありました。 彼女が今まで知らなかった新しい生き方がありました。 彼女は今、命の光に包まれて、新しい人生を踏み出しました。主の愛に包まれ、主の愛に生きる本当の命へと解き放たれたのです。