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12ステップ 第4講

御言葉:創世記2:4−25



幸福の園、エデン


「神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(16,17)



 創世記2章は、神様が人類の最初の先祖であるアダムとエバに贈り物として与えられた幸福の園、エデンについて記録しています。また、創世記1章の人間創造の部分に焦点を合わせて、これを詳しく説明しています。今日の御言葉は、人間の幸福論についての説明です。人はいつも幸せに暮らそうと願っています。どうすれば、幸せになれるかを考えて来ました。そして、幸せになるために努力しています。お金持ちになれば幸せになれると思う人は一生懸命お金を儲けようとします。それでは真の幸せの条件は何であり、どうすれば真に幸せになれるでしょうか。神様が人間の幸せのために設けられた幸福の園、エデンを通して学んでみたいと思います。


T.いのちの息を吹き込まれた神様(4−7)


 4節をご覧下さい。「これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、」ここからは神様のことを「神である主」と言っています。創世記1章で学んだように1章で現わされている神様の名は「エロヒーム」で全能者としての創造主という性格を表わす時に用いられました。それに対して2章から出ている「神である主」は「ヤーウェ」で契約を結ばれ、また守られる恵み深い救い主の神であることを表わす場合に用いられます。

 神様が人間を創造される前の地の状態はどうでしたか。5,6節をご覧下さい。「地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。」これは土地を耕す働き人が必要な状態でした。また、主人公である人間の出現を待っている状態でした。

 それでは神様は人を何で創造されましたか。7節をご覧下さい。「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」ここで「造り」と言われていることばは、原語においては、すでに使われて来た「バラー」も「アサー」も使われないで、「ヤツァル」ということばが使われています。これは、陶器を作る時に用いられることばです。神様はまるで陶器を作る者が美しい陶器を作るように愛情と心を込めて土のちりで人を形造られました。そして、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。そこで、人は、生きものとなりました。以上から私達は人間について三つのことを学んでみたいと思います。

 第一に、人は土のちりで造られた存在です。ヘブル語で人間という名前「アダム」は、「土」すなわち「アダマー」から取られました。使徒パウロは第一の人は地から出て、土で造られた者だと言いました(コリントT15:47)。また、すべての人はちりから出て、ちりに帰る存在です(伝導3:20)。まるで陶器がその寿命が終わると土に帰ることと同じです。ですから、人間は創造主である神様の御前で謙遜でなければなりません。また、人間の限界と弱さを知って、創造主である神様に頼らなければなりません。創造主である神様は私達人間がどれほど弱い存在であるかを知っておられます。それで父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれます。主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられます(詩篇103:13,14)。そして、自分の弱さを知って神様に頼る人に御力をあらわしてくださいます。使徒パウロは自分の力は、弱さのうちに完全に現われるからキリストの力が自分をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りました(コリントU12:9)。そして彼は、自分を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるという確信を持って勝利の人生を送りました(ピリピ4:13)。

 第二に、人は魂の所有者です。

 人は神の命の息が吹き込まれてなければ土地のちりに過ぎない存在です。しかし、神様が鼻にいのちの息を吹き込まれることによって、人間は霊的な存在、すなわち魂の所有者になりました。人は霊によって、神様と交わることができます。霊は人間の尊い人格と良心と神様のかたちが存在する場所です。人間は体を持っているので、体のために睡眠、食物、運動などが必要です。同時に、霊的な存在ですから、霊的な食べ物、霊的な休みなどが必要です。それでイエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と言われました(マタイ4:4)。動物は肉体だけ満足できればすべてがオーケーです。しかし、人は霊の要求が満たされなければまことの満足を得ることができません。先進国で自殺が多いのは肉体の食物をいくら食べても人は満足できないことを表わしています。「伊豆の踊子」や「雪国」などの小説で有名な川端康成さんはノーベル文学賞を受賞しました。しかし、彼も魂の虚しさを埋めることができず自殺しました。ヨハネの福音書4章に出ているサマリヤの女は五人の夫と結婚しました。そして別の男性と同居していました。しかし、彼女は幸せになれず、彼女の魂は渇いていました。彼女はイエス様をキリストとして信じるようになった時、魂の渇きの問題が解決されました。(ヨハネ4:14)。イエス様はヨハネ7:37、38節で言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」そうです。イエス様は私達の魂を罪から救い、私達の魂を生き返らせ、神様と正しい関係性を結ばせるためにこの世に来られました。私達が肉体のためには一生懸命食べているのに霊的ないのちのためにはどれほど食べているでしょうか。毎日三食をぬかずに食べているのに霊的な食物である聖書は毎日読んでいるでしょうか。一瞬も休まず息をしているのに魂の呼吸と言われている祈りは毎日しているでしょうか。霊の要求は神様の御言葉、祈りなどによって神様との交わりを通して得ることができます。それで聖書は次のように言っています。「絶えず祈りなさい。」(テサロニケT5:17)。

 第三に、神様は私達のいのちの源であり、主人です。

 神様が鼻にいのちの息を吹き込まれることによって、人間は生き物になりました。ですから、いのちの源は神様です。私達はクラゲやアメーバから進化したのではありません。神様が創造されました。いのちは神様から来て神様に帰ります。私たちが今息をしながら生きているのは、神様がいのちを息を吹き込まれたからです。もし、神様がそのいのちを持って行かれるなら、私の肉体はすぐ土に帰らなければなりません。

 ルカ12:16‐21節には面白いイエス様のたとえ話が出ています。愚かな金持ちのたとえです。彼の畑は豊作でした。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えました。「どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。」そして言いました。「こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」しかし神様は彼に言われました。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」このたとえ話が私達に教えてくれることは何ですか。私達のいのちは神様のものであるということです。ですから、いのちが自分のものだと思い、わがままの人生を送ってはなりません。私達のいのちは一回だけのものです。この尊いいのちを持って神様が願われる人生を送らなければなりません。私のいのちの主人は神様です。私達はそのいのちの管理人です。私達が神様から与えられたいのちを神様のために使うことができるように祈ります。


U.戒めをくださった神様(8−17)


 神様は形造った人のために何をされましたか。


 第一に、エデンの園を設けられました(8‐15)。8節をご覧下さい。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれました。「設けた」という言葉には、特別に準備したという意味があります。神様は人間を創造され、人間の幸福について深い関心を持たれました。そして、神様は最も良い場所、つまり東の所に、楽園(パラダイス)を設けられました。それは神の園でした。9節をご覧下さい。 神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせました。エデンは食べる問題が解決されているところでした。お腹がすいたらいつでもおいしくて美しい果物を取って食べることができました。それだけではありません。神様は園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせました。人はいのちの木からとって食べて永遠に生きることができました。善悪の知識の木は、神様の戒めの御言葉として、唯一である神様がくださった戒めをかたちで現わした果物の木です。この木と実を見るたびに、神様の戒めを思い出すようになります。

 そして10‐14節を見ると、そこの自然環境がどれほど良くて美しいかを知ることができます。10節をご覧下さい。一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていました。第一のものの名はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金がありました。その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもありました。第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れました。第三の川の名はヒデケルで、それはアシュルの東を流れました。第四の川、それはユーフラテスでした。エデンは四つの川の源となっていました。川は古代文明が発生したところです。それを見ると、エデンの園はいつも美しく豊かなところであったことがわかります。それだけではなく、金や宝石が輝く豊かな園でした。また、エデンには罪がなく、神様が主人となられる神様の園でした。悲しみも、叫びも、苦しみもないところでした。真の自由といのちと平安と愛と恵みが全地に満ちているまさに楽園でした。

 それではエデンの園を設けられた神様はどんな方ですか。この神様は愛と祝福の神様です。神様は人間を創造された創造主です。ですから神様は誰よりも人間をよく知っておられます。神様は人間の幸せのために何が必要なのかを知っておられる方です。神様は子供のために良いものを与えることを願う親のようにアダムの幸せのためにすべての良いものを与えてくださいました。この神様は愛の神様です。人間を非常に愛してエデンの園を設けられた神様は堕落した人間を罪から救うためにご自分の一人子さえ惜しまず与えてくださいました。そしてイエス・キリストを通して人類を救い、パラダイスを用意してくださいました。黙示録22:1‐5節には神様が用意されたパラダイスの様子が出ています。そこはエデンの園から川が流れるように水晶のように光るいのちの水の川が神様と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れます。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実がなり、その木の葉は諸国の民をいやします。そこは神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいりません。またそこにはあらゆる宝石で飾られています(黙21:19)。そしてそこにはもはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません(黙21:4)。私達を愛し、永遠の神の国を約束してくださった神様の愛に感謝します。

 第二に、聖なる使命を与えてくださいました(15)。神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせました。アダムはエデンの園において、ただ何もしないで毎日楽しんでいたのではありません。彼には仕事がありました。真の幸せは、神様が与えてくださった使命のために熱心に働くことにあります。

 第三に、神様は人に戒めの御言葉を与えて下さいました。16,17節をご覧下さい。「神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」これをアダムのバイブルだと言います。神様はなぜこの戒めの御言葉を与えてくださったのでしょうか。それは、霊的な秩序を立てるためでした。神様は人間が生きていくに必要なものを禁じられたのではありませんでした。人間の必要なものは何一つとして禁じておられませんでした。しかし、善悪を知る木の実だけは食べることを禁じられました。それはその実を人間に与えるのが惜しいと思ったからではありません。人は神様から自由と祝福が与えられた時、それを与えてくださった神様を忘れてしまう傾向があります。人が神様を忘れて神様との秩序が破壊されると幸せはなくなります。人が神様を神様としてあがめず、感謝もしないとどうなりますか。自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいます(ローマ1:21‐23)。魚は水の中にいる時、自由があります。もし、魚が水の中にいるのはいやだと思い、陸地に上がると死んでしまいます。自由は霊的な秩序の中にあるのです。神様は人間に無限な自由と祝福を与えてくださいました。だからと言って創造主を忘れて高慢になり、創造主から離れると人間は水から離れた魚のようになります。神様が戒めの御言葉を与えてくださったのは人を愛しておられるからです。神様は人が放縦しないで真理の御言葉の中で真の自由を得ることを願われました。アダムはこの神様の戒めの御言葉に聞き従うことによってエデンの園で無限な自由と祝福を得ることができました。

 もう一つの戒めの御言葉を与えてくださった理由は、人に人格的な従順を願われたからです。真の自由は、選択の自由がなければなりません。神様は人間に選択の自由、すなわち、自由意志を与えてくださいました。神様は人間を命令通りに動くロボットのような存在として造られず、神様のかたちに似せて人格的な存在として造られました。神様は人間の自由意志を尊く思われました。さらには善悪の知識の木から取って食べるかも知れない人間に善悪の知識の木を与えてくださいました。神様はアダムに人格的な従順を願われたのです。

 神様は私達にも選択の自由を与えてくださいました。ロボットのようにむりやりに従わせるのではなく、自分から信じて従うようにしてくださいました。神様は罪人を救うためにイエス・キリストをこの世に送ってくださいました。そしてイエス・キリストの十字架の死と復活によって、私達の罪を赦し、神様の子供としてくださいました。神様は私達がこの神様の恵みに感謝して自発的に神様の御言葉に聞き従うことを願っておられます。神様は自ら進んで喜びと感謝の心を持って神様に仕え、神様を愛することを願っておられます。私達が神様の愛と恵みを覚えて創造主である神様を受け入れ、神様の御言葉に自発的に聞き従うことができるように祈ります。


V.家庭を造られた神様(18−25)


 神様はアダムにパラダイスを与え、戒めの御言葉を与えてくださいました。それから神様は一人でいるアダムのために何をしようとされましたか。18節をご覧下さい。その後、神である主は仰せられました。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」その時アダムは熱心に生き物に名前をつけていました。アダムはすべての生き物をよく観察して、それにふさわしい名前をつけたでしょう。「あなたは鼻が長いからゾウと名づけよう。あなたは首が長いからキリンと名づけよう。あなたは太っているから豚と名づけよう。あなたは木によく上れるからサルと名づけよう。」神様はこのように熱心に働いているアダムがひとりでいるのは良くないと思われました。そして、彼の寂しさと弱さをご存知で、彼にふさわしい助け手を造ろうと思われました。ここで注目すべきことは神様は女を助け手として造ろうとされたことです。助け手がどのように助けるかは非常に大切なことです。偉大な人のうしろには偉大な助け手がいます。世界を征服するのは男性ですが、男性を征服するのは女性だと言われています。このように女性は弱く見えますが男性に対しては非常に強いです。それはまだ結婚してない方はよく知らないでしょう。ある人は神様を信じない女性と結婚して後で信じるようにすればいいではないかと言います。しかし、それは無知から来た言葉です。ですから男性は信仰がある女性を助け手として与えてくださるように主に祈らなければなりません。女性が良い助け手となるためには男性よりも霊的に成熟しなければなりません。

 それでは神様は女をどのように造られましたか。21,22節をご覧下さい。「そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。」神様が与えられた同労者を迎えるアダムの喜びはどうでしたか。23節をご覧下さい。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」神様によって導かれ、自分の前に現われた女性を見た時、アダムの心は、その女性によって占められました。彼の唇からはついに愛の歌がほとばしり出ました。アダムは神様が与えてくださった人を心から同労者として受け入れ、自分の体のように愛するようになりました。

 女が男より造られた時、神様は妻となるべき女を、夫となるべき男よりまさる者としては造られませんでした。女は男の頭から造られなかったからです。また神様は夫が妻を踏みつけるようにと、足からも造られませんでした。妻は夫の助け手となるために、男のあばら骨より造られました。妻は夫のよい友、愛すべき者、保護すべき者、夫を助ける者として、夫のあばら骨から造られたのです。従って、夫は妻を愛し、妻は夫を敬うのが自然です(エペソ5:33)。

 聖書が話す結婚の意味は何ですか。24節をご覧下さい。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」結婚は、実に神様の制定された幸福の制度です。夫婦はふたりの結合ではなく、もともとひとりでした。ふたりの男女がそのもとの姿にかえり、男と女二人が一つの人格として歩むことです。結婚は神様が計画し、神様が仲立ちし、神様が成立させます。アダムとエバとは、神様にゆだね、従っただけです。そして最後に彼らは感謝して、それを受けたのです。このようにして、すべての結婚の典型であるアダムとエバの結婚が成立しました。

 また、結婚とは、成人になった男女が結び合い、一体となることです。イエス様は創世記2:24節の御言葉を用いて結婚について次のように言われました。「『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」(マタイ19:5)。一心同体となるためには信仰も使命も人生の方向や目的も、望みも同じでなければなりません。そして、互いに助け合い、理解し合い、尊敬し合い、学び合わなければなりません。

 以上を勉強して、エデンの園はどんな点で楽園ですか。その中には、神様が与えてくださった尊い使命があり、無限な自由があり、その自由を守るために戒めの御言葉があります。また、使命をともに担う愛する同労者がいます。これらが人間の幸せの条件です。この中の一つでも欠けてはなりません。人間を愛し、祝福してくださる神様に感謝します。