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12ステップ 第3講

御言葉:創世記1:26−2:3



人、神様のかたちに造られる。


「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(1:27)



 『なぜ自分が、今、ここにいるんだろう?』誰でも、青年期に一度は抱く疑問ではないでしょうか? なぜなら、初めから自分の存在の意味を確信してこの世に生まれてくる人はいないからです。 誰もが青年期に悩み迷いながら自分探しをするのです。自分で決めて生まれたわけでもなければ、 自分という意識がどこから来たのか、どこへ行くのかもわかりません。もちろん、肉体の存在は生物学の対象として説明されるかもしれません。 でも、肉体とは別の『自分』という意識が確かに存在します。あの人とも、この人とも違う自分…、 考えてみると本当に不思議ですね。こうした人の存在について聖書では、初めに次のように語られています。

 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。(創世記1章27節)

 神のかたち…。この言葉の意味するところは何なのでしょうか?ご一緒に探しにでかけましょう。


T.人をご自身のかたちに創造された神様(26‐27)


 神様が人間をお造りになる前にどんな御旨を置かれましたか。26節をご覧下さい。「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。」これは、神様が人間をお造りになる前にご自身の中であらかじめご計画されたということを示しています。神様は人間を創造するに当たって、他の被造物を造る時よりも、より深く考え、特別な御旨を置かれて創造されたのです。それでは神様は人間をどのように創造されましたか。27節をご覧下さい。「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」神様は人をご自身のかたちに創造されました。ここで「神様のかたち」(=the image of God)とは何を意味するでしょうか。「神のかたち」とは神様の内面的な特性を意味します。すなわち、神様の本質と品性を意味します。神様の本質は霊です(ヨハネ4:24)。私達人間は霊的な存在として造られました。人は霊的な存在なので神様を知り、霊によって神様を礼拝することができるのです。また、神様は愛です(Tヨハネ4:8)。この愛は真理に基づいた聖なる愛であり、犠牲的なアガペーの愛です。このような愛が私達のうちに刻まれているので、聖なる神様の愛を慕いあえぐのです。また、私達人間は動物と違って道徳的な存在です。動物には道徳観念がないので道で恥ずかしいことをしても恥ずかしく思いません。豚や犬がが高尚な夢を抱き、高い倫理意識を持って聖なる生活をすることはありえません。しかし、人間は道徳的な存在ですから、罪を犯したら恥じを感じ、カメラマンに写真をとられることを避けようとします。いくら悪い人でも、自分の子供だけは正しく、真実に生きることを願います。それは人間が道徳的な存在として造られたからです。このように人間は動物と誕生日が同じで、同じ材料で造られましたが、神様は人間に特別な御旨を置かれ、聖なる神様のかたちに似せて造られました。これは神様の一方的な恵みであり、祝福です。その事実をよく悟った詩篇の著者は次のように歌いました。「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。すべて、羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。」(詩8:4ー8)。

 ところが、人間は罪を犯したために、この神様のかたちを失ってしまいました。人間が尊くて尊厳な存在であるのは、神様のかたちに造られたからです。しかし、神様のかたちを失った人間は肉に過ぎない存在になってしまいました。神様を知る知識も愛も聖なる品性も失って人間の価値は地に落ちてしまいました。しかし、神様はご自身のかたちに造られた人間を相変わらず愛し、救い主イエス・キリストをこの世に送って下さいました。イエス様は人々に永遠のいのちを受けられる道を教え、最後に私達の罪を背負って十字架につけられ死なれました。それは私達が受けなければならない罪の報いの刑罰を、身代わりになって受けて死んでくださったのです。そして墓に葬られましたが、死者の中から三日目によみがえられました。イエス様の十字架の死と復活によって私達は失われた神様のかたちを取り戻すことができる道が開かれました。聖書は次のように言っています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリントU5:17。私達はイエス・キリストを信じ、見習う生活を通して失われた神様のかたちを回復することができます(エペソ4:13、コロサイ1:28)。イエス・キリストによって利己的な者が犠牲的な者に、偽りの者が真実な者に、汚れた者が聖なる者に新しく変えられます。


U.人に使命をお与えになった神様(28)


 神様が人間を創造された後どんな祝福をくださいましたか。28節をご覧下さい。「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」この御言葉が今の私達に与える意味は何でしょうか。「生めよ。増えよ。」というのは、神様のかたちに似た人間をたくさん生みなさいという意味です。すなわち、この世の人々に福音を宣べ伝えてイエス・キリストを信じて新しく生まれる人がますます増えるようにしなさいという事です。「地を従えよ。」とは、自然を開拓し、耕すことを意味します。「すべての生き物を支配せよ。」とは、管理人としてこの世を神様の創造の摂理に従ってよく管理しなさいという事です。

 ここで使命人としての人間について考えてみましょう。神様は人間をただ飲み食いしながら遊ぶ存在ではなく、使命を持つ存在として造られました。ですから、人間は力と知恵を尽くして神様の御旨に従い、神様の栄光のために熱心に働く時が一番幸せです。人間に神様が与えられた使命がある時、生きがいがあり、ビジョンがあり、生命が躍動する力があります。イエス様の12弟子達は弱小民族の田舎の人々でした。しかし、彼らはイエス様から与えられた世界宣教の使命に聞き従った時、偉大な神様のしもべ達になりました。パウロの偉大さはどこにあるでしょうか。彼の学問や情熱にあったのではありません。使徒20:24節で彼は次のように言いました。「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」パウロは使命を自分のいのちよりも尊く思いました。そして、その使命を果たし終えるために自分の全生涯を捧げました。ここに彼の偉大さがあり、彼の絶対的な存在意味と真の幸せがありました。

 神様は人間の食べる問題をどのように解決してくださいましたか。29、30節をご覧下さい。「ついで神は仰せられた。『見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。』すると、そのようになった。」神様は人に使命を与えられた後、食べる問題を解決してくださいました。多くの人々が使命人として生きることを願いながらも実際にはそのように生きることができない理由は何でしょうか。それは何を食べるか、何を飲むかなどの心配のためです。イエス様は同じ問題で心配している弟子達に言われました。「空の鳥を見なさい。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)。神様は使命人の食べるものを解決してくださいます。そして、その人生を祝福してくださいます。この前、ピューリタン達の信仰について講義を聞きました。ピューリタン達は何を食べるか、何を飲むかに関心があったのではなく、神の国とその義を求めることに関心がありました。その結果、どうなりましたか。アメリカに多くの民族が移民して来ましたが、アメリカを支配した大部分の人々が少数のピューリタン達や彼らの子孫だったそうです。同じ時代、同じ町にジョナタン・エドワードとマーク・ジュックスという人が住んでいました。マーク・ジュックスはどうすれば人生をエンジョイできるかに関心がある人でした。彼は同じことに関心を持っている女性と結婚しました。彼の5代までの子孫を調べて見ると、1,026名の子孫が生まれました。その中で100名が13年くらい刑務所で生活しました。100名はアルコール中毒者でした。また、300名は自殺したり、早死になりました。190名の遊女が出ました。マーク・ジュックスの子孫はほとんどが犯罪者になり、アメリカ社会に貢献した人は一人もいませんでした。ところが、同じ時代に同じ町に住んでいたマーク・エドワードは、貧しい牧師でした。彼は非常に貧しくて説教を書く紙もなくて自分の子供が使っていた小さな紙に説教を書くほどでした。しかし、彼は信仰によって子孫を教育しました。そして、5代まで729名の子孫が生まれました。その中で300名が牧師や伝道者になりました。60名の大学教授が出ました。60名の作家が出ました。13名の大学総長が出ました。3名の国会議員や副大統領が出ました。この二人のたとえは私達に何を教えてくれますか。私達が信仰によって使命人として生きる時、神様は将来受ける祝福だけではなく、この世でも祝福してくださることを学ぶことができます。このピューリタン達の信仰について学び、私の息子、ヨハネ君にも1:1聖書勉強をやらせています。私達に使命をお与えになった神様に感謝します。私達がこの使命をよく担うことができるように祈ります。


V.人を非常に喜ばれる神様(31)


 神様がお造りになったすべてのものをご覧になった喜びはどうですか。31節をご覧下さい。「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。」神様は創造するたびに「それをよしとされた」と所感を発表されました。ところが、第六日に人間をお造りになってからは「見よ。それは非常によかった。」「It was very good」と所感を発表されました。人が造られてからすべてのものが非常によくなりました。人が造られてからすべてのものが傑作品になりました。ですから、もし人間が造られなかったなら万物は未完成の作品だとも言えるでしょう。それほど人間の存在は神様の御前で絶対的な価値と存在意味があります。ここで私たち人間の存在意味と目的について学ぶことができます。

 第一に、人間は神様に非常に喜ばれる存在です。

 神様が人間を創造され非常に喜ばれたことは、人間は神様に非常に喜ばれる存在であることを言ってくれます。神様は人を造られ、非常に喜ばれました。その人が、背が低くても高くても、太っていてもやせていても神様は非常に喜ばれます。人間が不幸なのは神様の御前で自分の絶対的な存在意味を知らないからです。神様の御前で自分の絶対的な存在価値を知らないといつも他人と比べながら苦しみます。そして劣等感や高慢に捕らわれます。また、人々から賞賛されることや認められることを求めます。ですから私達は神様の御前で本当の自分を発見しなければなりません。神様は私達ひとりひとりに皆ユニークな個性を与えられました。私達ひとりひとりは神様の傑作品であり、神様の御前で絶対的な価値と存在意味があります。

 第二に、人間は神様の栄光のために生きる存在です。

 神様が人間を創造されて後、非常に喜ばれたのは人間が神様の栄光のために造られたことを言ってくれます(イザヤ43:7)。ですから、私達の人生の目的は、神様の栄光のために生きることです。ところが、神様の栄光のために生きるべきだと言うと反発心が生じるかも知れません。「自分の幸せのために生きるべきではないか」「家庭の幸せを優先すべきではないか」と思います。しかし、実際にはその反対です。人は神様の栄光のために生きるとき、まことに自分も家族も幸せになります。私達が食べるにしても、飲むにしても、勉強や仕事も神様の栄光のためにすることができるように祈ります。

 ある方は初めて私たちの宣教会へ来たとき、次のように質問されたそうです。「あなたの人生の目的は何だと思いますか」すると、彼は「人生の目的、そんなものがあるか。死んでそのまま消えてしまったらそれでおしまいだ。」と答えたそうです。しかし、1週間毎日創世記を勉強してから創造主である神様を受け入れたそうです。すると、人生の虚しさが消えて人生の意味を知るようになり、彼の人生は全く新しくなりました。そして、彼は神様の栄光のために司法試験を準備し、合格して、検事や弁護士の仕事をしました。ところが、世界宣教の使命を受け入れて宣教師としてアメリカに行きました。彼は初期新聞配達、食堂、店などで働きながら宣教し、今は銀行の弁護士として働きながら多くの命の実を結んでいます。


W.安息日をお与えになった神様(2:1‐3)


 天と地とすべての万象を完成させた神様は何をされましたか。1、2節をご覧下さい。「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。」神様は疲れたから休まれたのではありません。人々はいろいろな方法で休みを見つけようとします。寝ること、休暇、スポーツ、肉的な快楽などを通して休みを得ようとします。しかし、真の休みは神様が愛する人々のために与えるプレゼントです。それでは私達はどうすれば休みを得ることができるでしょうか。マタイ11:28,29でイエス様は言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」私達には体の休みだけではなく、魂の休みが必要です。魂の休みはいくら寝ても得ることができません。魂の休みは神様との交わりを通して得ることができるものです。神様は私達の安息のために安息日を与えてくださいました。私達は主日礼拝を通して魂の安息を得ることができます。私達が霊とまことによって主に礼拝をささげると、主は私達を祝福し、魂に安息を与えてくださいます。私達が主に喜ばれる礼拝を捧げる時、主は祝福してくださいます。

 3節をご覧下さい。「神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」安息日は神様に祝福された日であり、聖なる日です。

 以上から、人を造られた神様について学びました。神様は人間をご自身に似せて造られ、栄光と誉れの冠をかぶらせました。そして非常に喜ばれました。ですから、私達はこの神様の御前で自分を発見し、神様の栄光のために生きるべきです。私達が神様に非常に喜ばれる存在、神様を喜ばせる存在になるように祈ります。