[ホーム]



Q.聖書が神の言葉だと証明できるの?

 クリスチャンって、聖書に書いてあるから…、って聖書を基準にしていますが、その聖書が神の言葉だって証明できるんですか?

A.証明できないからこそ信じられるのです

 証明できません(誤解を避けるために言っておきますが、『証拠』と『証明』は別物です。聖書の真実性を示す証拠は数限りなくありますが、論理学的に、その正しさが証明されているわけではありません)。
 というのは聖書が神の言葉であることを、もし、この世の理論で証明できたとしたら、それは此の世の言葉だからです。この世を造ったはずの神が、この世に属するという矛盾が生じてしまうからです。神様が人間の頭の中で理解できてしまう存在になってしまうからです。人間がつくり出した神ならば人間によって証明できるでしょう。この世で証明できるものは本物の神ではないのです。
 ですから聖書が本当に神の言葉であるとするなら、その当否は、いわゆる客観的といわれる方法では証明できない。できないからこそ、聖書は神の言葉なのです。
 実際、私たちは、人間にとって根本的なことであるほど証明することができないことに気がつきます。例えば、あなたが、今、目の前の世界が確かな現実であることを信じていたとしても、それは証明して信じたわけではありません。疑いのない幼い頃からの体験によって信じられるようになったのです。 もし、幼児期に、この世界が信頼できないと思ってしまうような体験をしてしまったら、目の前の世界の確かささえも信頼できなかったはずです。
 さらに、人間にとって根本的なものには「愛」があります。しかし「これが愛です。」と見せることはできないのです。どうして愛の存在を信じることができるのでしょうか。それは体験したからです。人間は生まれてから数年の間、親の深い愛情に包まれることによって愛を体験することが必要で、それがなければ生きることに支障をきたすといいます。  人間にとって根本的なものは、体験によって与えられるのです。何の先入観もない中で、信頼し体験することによって、その存在を確信するようになるのです。先入観なく受け入れることがなければ体験することはできません。

 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ 20:29 )

 もし先入観なく受け入れるならば、あなたは聖書の言葉が真実であることを必ず体験できます。心の目が開かれ、神の言葉の確かさを知るようになるのです。

 彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。(ヨハネ 9:7 )