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Q.救いって不公平じゃない?
例えば、殺人犯に殺された人が生前にキリストを知らず、殺人犯の方は、その後、悔い改めてキリストを受け入れたとしたら、殺人犯の方だけが救われちゃうわけ?そんな不条理おかしくない?
ちなみに私は先祖代々の伝統的な仏教徒です。だからキリスト教徒にはなれません。
A.救いはあなた自身の問題です
救いは『神のみぞ知る』のであって、人には知り得ないのではないでしょうか?
それを知ろうとすること自体が人の奢りであると私には思えてなりません。私にできることは、ただ神に委ねることだけです。
ただ、はっきりしているのは、キリストは、人間を「救われた人」と「そうでない人」に区別するために来たのではなく、全ての人の救いのために来たということです。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネの福音書3章17、18節)
神は愛です。そして、その愛ゆえに、私たちと同じ人の姿をとって私たちの地上へと降りてきて、
私達を救うために、自分自身の命を捧げられました。あなたが、その愛を信頼するなら、あなたには聖書の言葉どおり救いが約束されています。どの宗教を信じているかなど関係ありません。
キリストは宗教などではなく神の愛そのものだからです。
救いとは、あなたが神の愛を心から信頼するかどうかの問題です。
もし神の愛を聞いたのに信じず、拒絶し、疑いの中にいるならば、それ自体が救われていないということを意味します。聖書が『信じない者は、すでにさばかれている。』というように…。
愛は個人的な関係です。神と人の間の関係に第三者が介入して「この愛は本物だ」とか「これはニセモノだ」などと判断できないのではないでしょうか。
その意味では、たとえ、生きているうちに『キリストを信じます』と言った方であれ、その方が本当に救われているかどうかは第三者に判断できないし、するべきでもないのです。
あなたが、周りの人の振る舞いを見て神の不条理を疑うことなく、ただ、決して不条理なことはされない神に信頼をおくことができますように祈ります。
「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」 (ヨハネの福音書21章22節)