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Q.なんでイエスの復活を信じるの?

 クリスチャンって復活を信じてるんですよね。でも、一度、完全に死んだ人間がよみがえるなんて絶対あり得ません。そんな迷信めいたことを信じちゃう意味が分からないのですが。

A.そこに人生の意味があるからです

 ある人は言いました。『やがて死ぬんだから人生の意味なんて考えてもしょうがないよ。』
 ある人は言いました。『今が全てでしょ。今楽しけりゃいいじゃん。』
 あなたはどうですか?

 私は、そうした言葉は、『本当は人生に普遍的な目的があって欲しい。』、『この世界の存在に意味があって欲しい。』という思いの裏返しのような気がしています。人は心の奥底では、決して滅びることのないものを求めています。なぜなら、人は、本来、永遠なる神の命の中にいたからです。だからこそ、心の奥底で、失ってしまった永遠を求め続けるのです。
 聖書は言います。神は地上に人となって降りてこられたと…。人間に初めに与えた命を、再び回復させるために…。世も死も、初めも終りも、その御手の内にある神が自ら…。生死という概念を超えた人間の存在意味、それは神の愛の中にあるのです。

 イエス・キリストは甦った…。

 単に生き返ったと言うのなら確かに奇異な迷信に過ぎないかも知れません。  しかし、イエスの甦りは、単に生き返ったということとは全く違う意味を持っています。イエスは十字架で死にました。そして死の中から命を回復されました。私たちの知っている生死を超えた真実の命を…。この世を超えた世界へと通じる永遠の命を…。甦りの命…。イエス・キリストの甦りを信じるとき、人は甦りの命を生きています。イエスの甦りを通して、この世の限界に支配されない自由な命へと導かれるのです。この命の中で、この世の「死」は、時間の中での生の営みを終えること、時間を超えることを意味するようになります。それは、まったく違った次元で新しい存在のしかたです。
 神の愛は『生』の世界だけの愛ではなく、『死』を知っている方から来る愛です。計り知れない深い場所からおとずれる愛です。しかし、誰かがあなたにこの愛をいくら語っても、あなたが受け止めない限り、その愛は、あなた自身の心に実を結ぶことはありません。ある意味、非常に個人的な体験です。
 マルティン・ルターは、「たとえ明日、世の終わりが来るとしても、私は今日、リンゴの木を植えよう」と言いました。明日、世が終わるという時、なぜ希望を持って木を植えたりできるのでしょうか?それはキリストが甦ったからです。そして、その愛の中で、この世界での一瞬一瞬は、永遠の重みを持つからです。聖書は言います。人間は本来、創造主の愛、創造的な愛に生きる存在だと…。あなたも、その愛に出会うために、この世に生を得たのだと…。