12ステップ 第8講
御言葉:マルコの福音書2:1−12
起きて歩けるようになった中風の人
「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました。』と言われた。」 (5)
あなたは、今、自由に生きていますか?『私は自由です。』というあなたは、本当に自由ですか?
自由とは何でしょうか?本当の自由とは…。歴史上、世界の多くの哲学者達が「自由」について思索してきました。しかし、
いくら思索しても『人間に自由は無い』という結論になるというのです。私たちは、外の世界にがんじがらめになって生きています。
自分の境遇に縛られて、行動を制限しています。
家庭、会社、財産、借金、社会的地位、名声といった外の環境に縛られて、心の自由を失っているのです。
今日の本文には、中風という病に冒された人が描かれています。中風とは、いわば脳卒中です。
脳出血によって、半身または腕・足など身体の一部がマヒして感覚がなくなり、自由が効かなくなる病のことです。
ですが、きっと、全ての人は冒されているのです。自由が効かなくなる病…心の中風に…。
T.信仰をご覧になる方(1-5a)
1,2節から話は始まります。イエス様はらい病人をきよめて数日後、再びカペナウムに来られました。
イエス様が家におられることが知れ渡ると、多くの人が集まり、戸口のところまですきまもないほ
どになったそうです。人々は、それぞれ問題を抱えてイエス様のもとに来たのです。
イエス様に救いを求めてきたのです。このような人々にイエス様は何をされましたか?
イエスはみことばを話しておられた。
イエス様はただ、御言葉を話されました。聖書の言葉を語るのなら、既に、当時、律法学者やパリサイ人達がいたはずです。
しかし、彼らの教えはどうでしたか?
その教えは律法中心でした。行いによらなければ救いは無いとする教えでした。
その言葉に、人々は大きな重圧を受けていました。人々は霊的に飢え乾いていました。
イエス様は、そのような時代に現われ神の国を語ったのです。
人々が、いかに、その教えに救われ、心の安らぎを得たことでしょう…。
そのとき、ひとりの中風の人が4人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。
中風とは、いわば脳卒中のことです。
当時の医療技術で、この病の治療は、ほぼ不可能だろうということは想像に難くありません。
半植物状態になって、病の床に臥してしまった彼をみて、家族、親戚、友人は、どれほどに嘆き悲しんだことでしょうか。
そんな折、彼らは耳にしたのです…。どんな病人をも癒すという奇跡の噂を…。
これは、彼らにとって最後の望みでした。
彼らは中風の友人を担架に乗せて走りました。
しかし、そこに着いたとき、彼らが目の当たりにしたものは…群集という大きな壁…。
イエス様が姿を現すところには、常に群集がありました。
今日も、明日も、あさっても…。
しかしイエス様はすぐそこにいる…。この機会を逃したら、次に会うことができるのはいつになるかわかりません。
彼らはどうしたのでしょうか…。
その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。
彼らは決してあきらめませんでした。
常識では考えられないことをしても、イエス様のみもとに病の人を連れて行くことを決意したのです。確かに、パレスチナの家の外には屋根に上るための
階段があったので、のぼって屋根をはがすことは可能でした。
しかし、人の家の屋根を勝手にはがして床をつり降ろすなんてことが、いかに常識はずれかということぐらい誰だってわかりますよね。
常識的に、あるいは理性的に考えれば、こんなことはしないのです。
しかし、彼らは出て行きました。
なぜなら彼らは中風の人を愛していたからです。
彼らは、ただ愛によって働く信仰によって(ガラテヤ5:6)出て行きました。
彼らは目の前の現実に躓いて望みを捨てることなく、愛によって出て行きました。
彼らは、決して望みを捨てませんでした。
中風という不治の病にも望みを捨てませんでした。
目の前の群集という壁にも望みを捨てませんでした。
彼らは、ただ出て行ったのです。
その先にある希望を信じて。
5節前半をご覧下さい。実際、イエス様は彼らの信仰をご覧になりました。
主は心をご覧になるのです(Tサムエル16:7)。ヘブル人への手紙10:38、39は語ります。
「『わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。』
私達は、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」
だから、目の前の状況を恐れず、ただ主の愛を信頼して生きて行こうではありませんか。
U.罪を赦す権威(5b-12)
イエス様は彼らの信仰をご覧になり、中風の人に言われました。
「子よ。あなたの罪は赦されました。」
中風の人は病気を癒してもらいに来たのです。常識的には「子よ。あなたの病気は癒されました。」
と言うべきです。わたし達は、問題にぶつかると、目の前の問題さえ解決されれば…と思うものです。
しかし一つの問題が解決したとしても、また別の問題が生じます。この世の問題は尽きることがありません。
そして、人生には決定的な問題があります。それは『終わりの日』の問題です。
イエス様は言われました。「子よ。あなたの罪は赦されました。」
根本的な問題は罪だと言われたのです。
罪とは心の的外れ(ハマルテーア)です。
神の愛を忘れた心です。
目の前の問題が不幸の根本原因なのではありません。
もし、神の愛がなければ、その時、本当の不幸が訪れるのです。
しかし、神の愛は全ての問題を乗り越える力です。死の問題さえも…。
イエス様は、彼の心をご覧になりました。
中風の病に倒れ、長い間、身動きひとつできずにいた彼。
食事も排泄も何一つとして自分の力ではできないのです。
無力な自分の姿に、どんなに苦しんだでしょうか。プライドなんて、もう遠い昔にズタズタに引き裂かれていたことでしょう。
『皆に迷惑をかけるばかりで…、こんな自分に生きる価値なんてあるのだろうか…』そんな絶望の淵に立たされていたかも知れません。
しかしイエス様は、そんな彼を見て「子よ。」と呼びかけられました。
イエス様は彼に何かを要求せず、罪を赦しを宣言されました。
何かと引き換えに罪を赦したのではありません。
ただ、彼が、イエス様の愛する子であったから…。
人は「こんな自分が受け入れてもらえるわけがない」とか「自分にはこんな長所があるから、だから評価されるんだ」などと思うものです。
そして、自分が愛されるために、評価されるために、必死になって自分を高めようと努力します。
しかし、イエス様は違いました。
そこにあるのは、あるがまま出て行く人を誰でも、愛する子として暖かく受け入れてくださる神の愛です。
それは、私たち一人一人の身代わりとなって十字架にかかるほどの愛だったのです。
ところが、その場に律法学者達が数人座っていて、心の中で理屈を言いました。
7節です。「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、
だれが罪を赦すことができよう。」彼らはイエス様が中風の人に「あなたの罪は赦されました。」と言われるのを聞いた時、
大きな衝撃を受けました。彼らにとってイエス様の言葉は神を汚す言葉以外のなにものでもなかったのです。
イエス様は彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、自分の霊で見抜いて、言われました。
「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。」そしてイエス様は彼らに質問をされました。
「中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』
と言うのと、どちらがやさしいか。」
それは、両方とも人間の力では不可能ですが、律法学者達は肉体の病は罪の証拠と思っていました。
罪があるから病にかかると思っていたのです。イエス様は、このような彼らさえも神の栄光を知るようにと望んでおられました。
だから、中風の人に言われたのです。
「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」
そのとき、驚くべきことが起こりました。
彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行ったのです…。
自由になった彼は、罪の床を取り上げて、神の世界へと歩いて行きました…。自由とは自分の命を生きるのではなく神の命を生きることです。
私たちは自分に縛られています。
「こんなの無理だ」とか「こんなこと自分のプライドが許さない」など、自分で自分を制限して生きています。
そこには本当の自由はありません。
しかし、神の愛は人を自由にします。人を自分中心から解き放ちます。
神の愛に出会うとき、人は神の命へと『新しく生まれる』のです。
中風の人が罪の赦しの恵みを受けて起きて歩くようになった時、人々はすっかり驚いて、
「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神様をあがめました。
この時間、私達のところにもイエス様は来て下さっています。あなたのところにも、そして、私のところにも。
そして宣言されます。「子よ。あなたの罪は赦されました。」と…。ただ、この言葉を覚えて生きることができますように。
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