12ステップ 第7講
御言葉:ルカの福音書5:1−11
深みに漕ぎ出したペテロ
「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。』と言った。」(8) |
今日の若者達は自分にとどまり、自分を守ることだけに人生を費やしていることが多いようです。
『人のことなど関係ない。自分さえ楽しく生きていければそれでいいさ。』とさえ言う声も聞こえてきます。
ですが、そうした生き方は本当に人にとって幸福をもたらすものなのでしょうか。
今日の御言葉には、イエス様が漁師であるシモン・ペテロを人間をとる者として召された出来事が証されています。
人間をとると言っても、魚をとることとは根本的に異なります。
『人間をとる』という言葉の真意は何ですか?
T.深い霊的な湖(1-7)
美しい一枚の絵のような光景です。イエス様は有名なゲネサレ湖の岸辺に立たれていました。想像してみましょう。この湖は長さが20キロメートル、幅が12キロメートル。
水の澄んだ美しく豊かな漁場です。
一節をご覧ください。群衆がイエス様に押し迫るようにして集まっていました。神のことばを聞くためです。
イエス様は岸べに小舟が二そうあるのをご覧になりました。そこには夜通し働いた漁師たちが、その舟から降りて網を洗っていました。漁師達は
群集など気にもとめず一生懸命自分の仕事をしていました。その顔には疲労と失望がみえました。
イエス様は、すでに顔見知りだった(ルカ4:38、ヨハネ1:41)漁師のシモンの舟にのり、陸から少し漕ぎ出すように頼まれました。
シモンは疲れていましたがイエス様の頼みを聞き入れました。
そしてイエス様はすわって、舟から群衆を教えられました。
この時シモンは何を感じていたかはわかりませんが、彼がイエス様の教えを聞いたことだけは確かです。
イエス様は群衆を教えながらもシモンの心の中を見つめていました。彼の舟に何もないことをご覧に
なりました。暗く絶望に満ちた顔…。疲れは果てている姿…。夜通し働いて、何一つ得られなかった虚しさ…。
孤独の湖で、悲しみに沈んで…。
話が終わると、イエス様は何と言われましたか。4節です。「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」
シモンは、この言葉を聞いてどう思ったのでしょうか。彼は夜通
し働いて、何一つとれなかったのです。
彼はベテランの漁師でした。一方でイエス様は大工出身で、漁について知らないはず。
シモンにとって、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」という言葉はまさに非常識そのものだったはずです。
普通なら、「先生、そんな馬鹿なことを言わないで下さい。私は疲れているんです。」と言ってもおかしくありません。
イエス様は浅い岸辺に立っていたシモンに言われました。「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を
とりなさい。」
それを聞いたシモンは何と答えましたか。
5節をご覧下さい。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことば
どおり、網をおろしてみましょう。」
彼は失望していましたが、それでも、イエス様の言葉を受け入れました。
「絶対無理だから。」と主張して、イエス様の言葉を拒むことはしませんでした。
「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」彼は、深みへと漕ぎ出して行きました。
深みへ…。自分の常識、経験という浅瀬から、自分の知らない深みへ…。しかし、今は一人ではないのです。
その舟にはイエス様がともにいました。
シモン・ペテロが御言葉どおり、網をおろして見た時、何が起こったのでしょうか。6節をご覧下さい。「そして、そのとおりにすると、たくさんの魚
がはいり、網は破れそうになった。」
イエス様の言葉を聞いて網をおろしたとき、未知の世界を体験しました。
これを見たシモン・ペテロは、イエス様の足もとにひれ伏して、
「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言いました。
U.道を指し示したイエス様(8-11)
シモンにとって信じられないことが起こりました。今まで経験してきた現実の常識を超えたことが起こりました。
こんなことが起こるはずがなかったのです。
シモンの経験や常識、そして自信は崩れ去りました。
自分の理解を超えた力を目にしました。
そして、言いました。「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と・・。
それまで、「先生」とよんでいたイエス様を「主よ」と呼びました。
そして、自分を罪深い人間と告白しました。
罪はハマルテーア(的から外れたこと)を意味します。すなわち、人間が神様の栄光に
至ることができず、神様の御旨と本来の創造の目的から外れて生きていることです。
シモンは今まで自分の経験が全てでした。自分の知識が全てでした。自分の力が全てでした。目の前の現実が全てでした。
魚が一匹も取れなかったとき、彼は自分自身を見て絶望しました。
そして、イエスが「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた時も、
きっと、どこかで疑いを持っていたのでしょう。
そんな、彼が自分の理解を超えた世界を体験したのです。
イエス様は言われました。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです」
(10b)。
こわがらなくてもよい。
わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20)
シモンはゲネサレ湖で仕事をしながらも、むなしさの中で生きてきました。
毎日毎日が同じように繰り返されていく現実。ここに何の意味があるのだろうか…。
自分の生活のために必死に仕事をし、いずれは死んでゆく。たった一人で…。
それまで魚をとる人生を生きてきたシモン…。
孤独と虚無の湖で…。悲しみに沈んで…。
そんなシモンに、イエス様は呼びかけました。
「これから後、あなたは人間をとるようになるのです」
人間をとる…。
ちょっと聞くと、変な言葉ですね。人さらい!?なんて思ってしまうかも知れません。
でも、もうちょっとよく考えてみましょう。
人間って何ですか?
二本足で歩くのが人間ですか?言葉を話すのが人間ですか?
顔かたちや能力が人間の本質ですか?
もっと大切なことがあるはずです。
そう…、聖書にはこうあります。『神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。(創世記1:27)』
人間とは、神のかたちに創造されたものです。そして神は愛です(Tヨハネ4:16)。
人間をとるとは、神の愛に生きることです。
神の愛が人間の本質です。海のように深い神の愛こそ。
「これから後、あなたは人間をとるようになるのです」
シモンは気がついたのです。魚ではない、人間をとる人生に…。
本来の人間として人と接し、人と心で触れ合う生き方に…。人間の中に自ら分け入っていく生き方に…。
人の心の悩みや苦しみを共に負い、共に生きていく生き方に…。
自分ばかりを主張するのではなく、相手を見つめ、相手の心を受け取ってゆく生き方に…。
それはイエス様の生き方です。
人々の心の暗闇の中で、夜を徹して祈り続けたイエス様の生き方です。
人の苦しみに根底から関わり、十字架を避けることもしなかったイエス様の生き方です。
自分が十字架についても、キリストは言われました。
「生きるんだ…。ずっと愛している…。」と…。
イエス様は言われました。「あなたは人間をとるようになるのです。」と…。
そして、彼らはイエス・キリストに従いました。舟を陸に着けると、何もかも…自分の思い煩いも…捨てて、イエス様に従いました。
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